象々の素敵な日記 古本屋の日記

象々の素敵な日記

理解できないものはなにひとつない。

ポストモダンの生活を描写するなら、以下のようになるだろうかーー個人の伝記的データの範囲を超えるものは、一切が漠然とし、ぼんやり霞んでいて、なにかしら非現実的である。世界は事物を指す記号や情報であふれているが、その事物はまた別の事物の記号にすぎないため、結局すべてを把握できる人は誰もいない。真の事物は隠されたままである。その姿を見ることは誰にもかなわない。

にもかかわらず私は、たとえ危機に晒されていようとも、真の事物はある、と確信している。大地や水が、陽光や風景や植物がある。機械や道具や楽器など、人間が作り出したものがある。それらはありのままそこにあるのであって、人為的なメッセージを発することもなく、自明のものとして存在している。

自身のなかに安らっているような物や建物をじっと眺めていると、私たちの知覚も不思議に和らいでくる。それらはメッセージを押しつけてこない。そこにある、ただそれだけだ。私たちの知覚は鎮まり、先入観は解かれ、無欲になってゆく。記号や象徴を越え、開かれ、無になる。なにかを見ているのに、そのものに意識は集中されないかのような状態。そうやって知覚が空っぽになったとき、見る者の心に浮かんでいるのは記憶ーー時間の深みからやってくる記憶かもしれない。そうしたとき、物を見るとは、世界の全体性を予感することにもなる。理解できないものはなにひとつないのだから。

ペーター・ツムトア 「物を見つめる」ーーみすず書房刊「建築について」所収 鈴木仁子訳

 

考えなくてもよいことを考え、しなくてもよいことをし、ほんとうに見る、ということから遠ざかって暮らしているようなそんな気がするわけで、その心の不安とも悲しみともとれるような空隙を満たそうとなんだか訳知り顔に本を読んだりするわけですが、勉強して、なにかを知ったと思うのは、ほんとうになにかの間違いでありましょう。大人になって社会へ出てちょっとは何かを自分がなし得たと思うのもやはり、なにかなにかの大間違いでありましょう。空の空なるかな。昔読んだデュラスの小説の主人公エルネスト少年がこんなようなことを云っていたのを思い出します。「学校は知らないことを教えるから行かない……」

 

今日の空がとても気持ち良く晴れていたことを、わたしは知っているような気がするのです。

古本屋の日記 2013年5月7日